ANMELDEN唯人の秘書である佐渡は、オークション会場の隅で憐みの目を向ける。
こんなことになる前までは美しく聡明な女だと思っていたのに――。
「七千万!」
「八千万!」
「九千万——」
その数字を叫んだのは、頭髪が薄く、体躯が肥え太り、顔中が脂ぎった男だった。
彼は最前列に座り、シャツの襟元を開けてだらりと緩んだ首筋を晒し、手には酒のグラスを揺らしていた。 その目つきは爬虫類のように粘っこく、壇上に縛られた麗をじろじろと舐め回している。「九千万! 他にいらっしゃいませんか?」
男は口を歪めて笑い、煙に燻された黄色い歯を覗かせる。
まるでもう獲物を手中に収めたかのようだった。「皮膚は爛れてても、価値はまだある」
「顔はまだ見られる。明かりを消せば同じだ」
「買って帰って飼い殺せばいい。死んだって構わない、どうせ安い買い物だ」
麗は体を丸めようとしたが、手足を縛られていてそれすらできない。
口を塞がれているせいで、漏れるのは曖昧な息の音だけ。 呼吸のたびに血の匂いがした。 涙が目隠しの端から滲み出し、顔の爛れた傷口に染みて、焼けるように痛む。なぜ。
どうして、こんなことになってしまったのか。
「一億」
それまで静観していた別の男が手を挙げた。
IT系企業で儲けた葛原清彦――佐渡はそれを確認して眉を顰める。
大学在学中から起業し成り上がった若造で、数年で会社を数十億で売却し、著名になった男だ。
だが裏の界隈では有名な嗜虐趣味の女嫌い。
金に物を言わせて女を買っては、性奴隷へと落とし動画配信などもやっているらしい。
そして使い物にならなくなった女を虐待し、甚振る。
どんな恨みがあればそんな事が出来るのかは知らないが、この男に買われれば二度とまともな世界には戻れないだろう。
「まぁ、その前に死ぬか……」
これ以上、値をつける者はいないだろう。
佐渡はそう確信して、オークション会場を出て電話をかける。
「葛原に決まりました」
電話の向こうでは唯人が「分かった」と短く答え、電話は切れた。
◇◇◇
「十億」
低い声が響いた。
会場が一瞬にして静まり返り、直後、人々のざわめきが聞こえた。
「十億だ……」
もうそれ以降、誰も値をつけようとはしなかった。
「十億……他にいらっしゃいませんか?」
槌の音が響いた。
「――落札!」
近づいて来た男の足音が傍でピタリと止まり、麗は息を飲む。
その後、乱暴に抱き上げられ車に乗せられた。
抱き上げられていても手足の自由がなく、身動ぎすら出来ない。
十億――そんな大金で自分を買った男からは、イランイランの香りがした。
何一つ喋らない男に、恐怖は段々と募る。
控え目な車の走行音だけが聞こえ、運転手らしき男が「旦那様」と声をかける。
「ご自宅でよろしいでしょうか?」
「いや、今日は別荘へ」
その声はあの十億の男の声だった。
低く耳障りの良い、落ち着いた声。
だが麗にはもう、声を発する気力も残ってはいなかった。
項垂れるように座り、車のドアへと寄り掛かる。
ただ疲れた――その感情だけが残っていた。
もういっそのこと一思いに殺して貰えれば……。
そんな感情さえ湧いて来る。
一度くらい、家族に会いに帰れば良かった。
もう二度と会えないのかもしれない。
そしてもう、この世にはいない祖母が生きていたら、きっとこういうだろう。
――ララ、諦めたら試合終了よ――
ふとそれを思い出した時、黙って死んでやるものか、と言う反骨精神が目を覚ます。
「お疲れさまでした」
運転手らしき男の声でそう告げられ、またイランイランの香りのする男に抱き抱えられて運ばれる。
足掻きたいけれど、足掻いた所でこの拘束を解いて貰わなければ、逃走も出来ない。
麗は未だ手の内に残っているガラス片を握り締め、覚悟を決めた。
どうせ死ぬなら、死ぬ気で一度逃げてみよう――。
愛していた唯人に信じて貰えなかった事も、誰かの思惑で殺人の容疑を着せられた事も、何一つ納得出来ているわけじゃない。
余命僅かだからと言って、尊厳まで奪われてただ死んでなどやるものか。
まして物のように買われて、それがこんな醜い女だと知ったら、この男は逆上して何をするか分かったものではない。
逃げるのは、今じゃない。
絶望し、諦め、それでもまだ残っていたのは――冷静な怒りだ。
「さぁ、着いたぞ」
男の声と同時に手足の拘束は解かれた。
続いて猿轡と目隠しを外され、一瞬、開かれた視界の眩しさに瞼をギュッと閉じる。
そして再び瞼を開いた瞬間。
麗は右手に握りしめていたガラス片を男に向かって力一杯振りかざした。
唯人の秘書である佐渡は、オークション会場の隅で憐みの目を向ける。 こんなことになる前までは美しく聡明な女だと思っていたのに――。「七千万!」「八千万!」「九千万——」 その数字を叫んだのは、頭髪が薄く、体躯が肥え太り、顔中が脂ぎった男だった。 彼は最前列に座り、シャツの襟元を開けてだらりと緩んだ首筋を晒し、手には酒のグラスを揺らしていた。 その目つきは爬虫類のように粘っこく、壇上に縛られた麗をじろじろと舐め回している。「九千万! 他にいらっしゃいませんか?」 男は口を歪めて笑い、煙に燻された黄色い歯を覗かせる。 まるでもう獲物を手中に収めたかのようだった。「皮膚は爛れてても、価値はまだある」「顔はまだ見られる。明かりを消せば同じだ」「買って帰って飼い殺せばいい。死んだって構わない、どうせ安い買い物だ」 麗は体を丸めようとしたが、手足を縛られていてそれすらできない。 口を塞がれているせいで、漏れるのは曖昧な息の音だけ。 呼吸のたびに血の匂いがした。 涙が目隠しの端から滲み出し、顔の爛れた傷口に染みて、焼けるように痛む。 なぜ。 どうして、こんなことになってしまったのか。「一億」 それまで静観していた別の男が手を挙げた。 IT系企業で儲けた葛原清彦――佐渡はそれを確認して眉を顰める。 大学在学中から起業し成り上がった若造で、数年で会社を数十億で売却し、著名になった男だ。 だが裏の界隈では有名な嗜虐趣味の女嫌い。 金に物を言わせて女を買っては、性奴隷へと落とし動画配信などもやっているらしい。 そして使い物にならなくなった女を虐待し、甚振る。 どんな恨みがあればそんな事が出来るのかは知らないが、この男に買われれば二度とまともな世界には戻れないだろう。「まぁ、その前に死ぬか……」 これ以上、値をつける者はいないだろう。 佐渡はそう確信して、オークション会場を出て電話をかける。「葛原に決まりました」 電話の向こうでは唯人が「分かった」と短く答え、電話は切れた。◇◇◇「十億」 低い声が響いた。 会場が一瞬にして静まり返り、直後、人々のざわめきが聞こえた。「十億だ……」 もうそれ以降、誰も値をつけようとはしなかった。「十億……他にいらっしゃいませんか?」 槌の音が響いた。「
広い応接室には秋津グループの会長である真蔵氏と、それに連なる親族一同が集まっている。「これを見て下さい」 唯人がそう言ってプロジェクターで壁一面に映し出したのは、妹の希美が入院していた時の映像だ。 自分より二つ年下の唯人の妹、希美は麗と同じく千日病を患っていた。 一年前、希美は病に耐え切れずこの世を去った。 その頃、麗はまだ健康で、希美が倒れたと知ると彼女は心配でたまらず、頻繁に病院へ足を運んだ。 話し相手になり、小さなお菓子を持って行った。 彼女とは年も近く、ずっと仲が良かったのだ。 なのに、映像には麗が、見舞いの品を無理やり口に突っ込んだり、頬を叩いたり、挙句の果てには花瓶の水をかけるなど、まるで自分が希美を苛めている。 SNSに流された動画には、罵詈雑言と言っていいコメントが多数つけられ、それを笑いながら読みあげる麗の姿があった。「な、に……これ……」「ふんっ、白々しい事を……」 そう言った唯人に、写真をぶちまけられる。 それにも身に覚えのない希美をいたぶる自分の姿が映っており、麗はただただ首を振って訴えた。「ちがっ……私じゃない! こんなことしてないっ!」「まだ言うかっ! ここまで証拠があるって言うのにっ!」「ちがうっ! やってないっ……こんなっ……」 床にばら撒かれた写真を拾い上げ、顔を上げた先には無数の軽蔑の目が向けられている。 誰が? 何で? 何の為に――? 息を吐くことも吸うことも苦しく、浅い呼吸のせいで言葉が詰まり始める。 麗の中では途方もない疑問が駆け巡っていた。 だが、誰一人その映像と写真を疑う者はいない。 流された映像の最後には、ぐったりと項垂れて動かなくなる希美が映っている。「この日、希美は息を引き取りました。この女が希美を殺したのです」「何と酷い……」「人のする事か」「……卑しい女だ」「醜い。罰が当たったんだ」 親族たちが口々に麗を罵る。 麗は悔しさと一緒に手の内のガラス片を握り締め、床に突っ伏したまま唇を噛み締めた。 でも、あの日の事は今でも鮮明に覚えている。 昼間会いに行った時、希美はいつになく体調が良さそうで、いろんな話をした。 一時帰宅できるかもしれないと、喜んでいたのだ。 なのにその晩、彼女は逝ってしまった。 医師は「急性心不全」と言い、麗はその現実を受け止
「開始価格三千万!」 高らかにそう告げられた後、花菱 麗は四肢を縛られたまま放り出された。 床に蟀谷を打ち付け、嚙まされた猿轡の隙間から小さく呻き声を上げる。 視界も口も塞がれているが、異様な空気が肌を刺す。 人々の騒めきと、目隠しをしていても分かる醜悪な人間の視線。 何も見えない暗闇の中、値踏みされる視線が麗の柔肌を蹂躙する。「四千万!」「五千万!」「七千万ッ!」 吊り上げられていく値段に、麗は唇を噛み締め肩を震わせた。「奴隷にするも良し、飼って愛でるも良し、美しい剥製も思いのまま。オーナー様のご自由にッ!」 恐ろしい煽り文句で客を喜ばせる男の声は嬉々としている。「本日最後の商品です。他にいらっしゃいませんか?」 商品――それが自分の事だと言う信じ難い現実が麗の思考を真っ白にした。 呼吸すらままならない恐怖の中、唾液を飲む音だけが妙にリアルに鼓膜に響く。 閉じた瞼から滲み出る涙で、爛れた肌がヒリヒリと痛んだ。 何故こんな事になったのか――――? 彼女は目隠しの内側に、あの愛おし気に自分を見る夫の瞳を思い出した。◇◇◇「千日病です」 診断書が麗の手に渡された時、彼女の指先はわずかに震え、頭の中は真っ白になった。 彼女は無数の可能性を考えてきた。 けれど、自分が本当にこの病にかかることだけは、想像したこともなかった。 千日病——世界中がその名を聞くだけで色を失う、希少な病。 一度発症すれば、皮膚はどこか一箇所からゆっくりと爛れ始め、日ごとに醜くなり、最終的には千日のうちに死に至る。 だからこそ、世の人はそれを恐れ、嫌悪し、ある種の「穢れ」のように扱う。 患者は隔離され、排斥され、忘れられ、やがては家族さえも遠ざかるようになる。 麗は、ずっと細心の注意を払って生きてきた。 帰宅すれば全身を消毒し、食事も気をつけ、少しの油断もなかった。 それなのに——それでも、恐れていた事は来てしまった。 彼女は、しばらく黙ったまま、ゆっくりと診断書を握りしめた。 ——大丈夫。 彼女は心の中でそう自分に言い聞かせた。 ——私には唯人がいる。 彼さえいれば、乗り越えられる。 五年の日々。 二人はあまりにも多くを一緒に経験してきた。 彼は優しく、思いやりがあり、いつも彼女が一番必要な時にそばにいてくれた。 自分がど